自分が日大の監督やコーチになっているかもしれない怖さ




コーチと監督の語ったことをまとめると(多分)こうなる

日大のアメフト問題で、本日20時に記者会見が行われました。監督の話を私なりに発言を要約すると、

  • 選手の成長を期して厳しい言葉を使った。「つぶせ」とか普通に言う。
  • 厳しい言葉はルールを守るという当たり前で暗黙の前提に立ったものだった
  • 若い選手は急激なチームの変化(負け越しから甲子園優勝)の中で、上級生なら当たり前に理解する文脈を理解できなかった
  • コーチも監督もそれに気づかず、チームの柱となって欲しい宮川選手にガンガン行った。それが彼を追い詰めたが、それは乗り越えられるものだとも思っていた(だって例年問題ないから)。
  • 結果、暗黙の前提は覆され、残念な結果になった

ということだと理解しました。

コーチの話で印象的だったのは、練習を外してから試合に出場するまでの経緯でした。

  • (コーチは)彼を練習から外すことで、自分を見つめ直させたかった
  • そこからどうするかを注視していた
  • コーチとしてのシナリオは「直訴にくる」→「試合に出してやる」であり、自分から一歩踏み出してくれることを期待していた。そして事実そうなったから、急遽試合に出した

ネットでの生放送ですから山ほど批判のコメントが付くわけですが、個人的には体育会系の人たちなら一定の理解は示すのかなと感じました。ただそれだけに、きっとこれはこのお二人にとって「当たり前」であり、「正しいこと」なのだろうなとも思いました。残念ながら選手にとってはそうではなかったわけですが。

子育てに置き換えるとこうなる

  • 我が子の成長を期して厳しい言葉を使った。「どうしてできないの!」とか普通に言う。
  • 厳しい言葉は「あなたを愛している」という当たり前で暗黙の前提に立ったものだった
  • 自分の子は急激な変化(小学校入学)の中で、周りの子なら当たり前に理解する文脈を理解できなかった
  • 父も母ももそれに気づかず、立派に育って欲しい我が子にガンガン行った。忘れ物を叱ったり、学校のルールに従うことを強く求めた。それが彼を追い詰めたが、それは乗り越えられるものだとも思っていた(だって他の子は出来るから)。
  • 結果、暗黙の前提は崩れ、子は親を愛せなくなった

これ、コーチバージョンは昭和あるあるかもしれませんが

  • (親は)子供を家から追い出すことで、自分を見つめ直させたかった
  • そこからどうするかを注視していた
  • 親としてのシナリオは「ドアを叩いて謝罪する」→「家に入れてやる」であり、自分が悪いことをしたと理解することを期待していた。そして事実そうなったから、家に入れてやった

こう見ると、自分が正しいものであり、相手は修正するものとして捉えていることがよくわかります。

職場に当てはめたらこうなる

  • 部下の成長を期して厳しい言葉を使った。「死ぬ気でやれ」とか普通に言う。
  • 厳しい言葉は「ほんとに死ななくてもいい」という当たり前で暗黙の前提に立ったものだった
  • 部下は急激な仕事の変化(異動とか成績低迷)の中で、普通なら当たり前に理解する文脈を理解できなかった
  • 上司も同僚もそれに気づかず、はやく成果を出して欲しいその人にガンガン行った。それが彼を追い詰めたが、それは乗り越えられるものだとも思っていた(だってみんな問題ないから)。
  • 結果暗黙の前提は見えなくなり、彼は過労死した

もうわざわざコーチバージョン書かないですけど、これは(多分)私が辿った道と構造的には同じなんだろうなと思います。私は「どうせいても役に立たないんだから早く帰れ」とか「つかえねーな、やめれば」などなどのお言葉を頂戴しましたが、そうすると「すみませんでした、◯◯が悪かったと思うのでもう一回やらせてください」みたいな感じになるんですよね。相手も多分わかってて言ってんだろうと思います。

前にも書いた通り、上司から見てできない部下は「正しくない」んです。監督やコーチから見た学生選手も同様でしょう。

人は「正しさ」の前に倫理的な判断を失う
このブログを作るきっかけにもなった最初の記事が、今も細く長く反響をいただくのでもう少し思うところを書くことにしました。はじめに断っておくと、これは全ての人に当てはまる話ではないのは承知の上です。 ↓最初の記事 なぜ「あの人」を憎めないのか ビ...

これを日常的にやってたら、そりゃあ選手は消耗します。

違う場面、違う人を相手に、私たちは正しさを振りかざしていないか

会見はネットで生中継でした。そこにはお二人への批判と罵詈雑言が溢れていました。記者の質問も、二人には関学の選手を意図的に怪我させる意図があったという前提で、まるで公開裁判のようでした。規定の時間を過ぎても会見を続けようとする記者達は、まるで正義の使者のです。とにかく「悪者」である2人の大人を謝らせたいのです。しかしその瞬間まさに、その人達は監督やコーチと同じことをしているのではないでしょうか。

私は2人の責任論や、悪意について議論するつもりはありません。しかし、このような心の有り様については、常に考えて置かなければならないと感じます。それを強く印象づける記者会見でした。

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