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「知らないこと」が人生を決めてしまう恐怖
釧路出身、東大の筆者が田舎と東京の「教育、文化格差」について記事を書きました。反響は凄まじく、瞬く間に200万PVを突破し、賛否の渦が起こり、単発寄稿のはずが連載化してしまう程。これは、多くの日本人が地方と都会に何かしら抱えていることの証拠だろうと思います。
要約すると、地方では日常的に大学進学を意識させる接点が少なく、よほど運に恵まれなければ東京に進学するなどという選択肢は「持てない」というもの。それは、情報を吟味し、意思決定をした上で進学しないのではなく、そもそもそういったインプットが得られないので大学(とりわけ東京)に進学するという発想すら抱かせない構造的問題がある、というものです。
かなり扇動的な書き方をしていることもあっていろいろ批判もあるのですが、「知らないこと、それ自体が大きなディスアドバンテージになる」という論旨は非常に的を射ているのではないでしょうか。そしてそこには、「知っているかどうか」という格差への絶望だけでなく、それを「知ってしまったこと」による絶望もあると思うのです。
これは教育の話ではない
Twitter界隈では「本当の釧路はもっと教育水準が高い」とか「田舎でももっとやれる」とか「個人の問題だ」などの議論が巻き起こっていますが、上記の論旨に着目すると全く異なる危機感が頭をよぎりました。私がこれを読んで思ったのは「世界の中の日本」と「企業の中のオープンイノベーション担当者」の2つでした。
世界の中の日本
内需で食えて、言語の壁が高くて、ダイバーシティが低い。そんな日本では、海外で何が起こっているか「知らない」ことが多いのではないでしょうか。私の親は多分、中国で無人コンビニがあることや、屋台ですらキャッシュレス決済できることなんて知らない。そして間違いなく私も、まさに今中国や、もっと言えばベトナムやシンガポールで起きていることを知らない。
そして、海外に出た人は日本と諸外国の差を眼前にして、きっと絶望するのだろうと思うのです。「海外はこんなに進んでる」「このままじゃ日本はダメだ」と。でも、その声を本当に受け取ってくれる人はなかなかいないのです。何せ、日本にしかいない人は日本しか知らないからです。これが第2の絶望です。
企業の中のオープンイノベーション担当者
そしてもっと差し迫ったところにいるのは、オープンイノベーションの担当者です。彼らは企業という極めてドメスティックな価値観を持っているコミュニティを出ていき、一度社外で起こっている様々な変化を見て絶望(記事に倣って敢えてこう言いますが)します。「他社はこんなに進んでいるのか」「こんな凄い技術があったのか」「このままじゃうちの会社は置いていかれる」…などなど。
しかしそれをバネに新しい企画をまとめ、協業先を決め、いざ社内に持ち帰ってみると次の絶望に襲われるのです。「それはウチの風土には合わないんじゃないか」「相手先がベンチャーではちょっと…」「それは本当に儲かるのか?」などなど、味方から背を撃たれるような反応に直面するからです。
人は自分と違うもの(=越境者)は排斥したがる
実践共同体研究をしていると必ず出てくるのが越境学習という言葉です。その名の通り、複数の組織、共同体の境を越えて活動(学習)する人を指します。法政大学の石山先生の研究においては、越境者が企業に学びを還流しようとすると、一度は失敗するという点が言及されています。
上述の話も全て越境者の話なんですよね。釧路→東京、日本→海外、自社→他社。カルチャーショックという言葉があるように、今いる場所を出て行くとそれが絶望感に感じられることはあるのかもしれません。越境者自身はそこで「知る」事ができるので、それをポジティブに内面化し、次のアクションにつなげていけます。しかし、持ち帰る先の人々は相変わらず「知らない」ままなのです。そこに第二の絶望があります。
「◯◯かぶれ」という揶揄の仕方はまさにそれを物語っています。今ここにない知識を持ち帰った人を「かぶれた」という表現で排斥しているのです。もちろんそこでは石山先生が指摘するように越境者自身にもコミュニケーション上の問題があるのですが、根本的な問題は新しい知を真摯に吟味しない組織であることは明白です。
上述の記事においても、著者は「最も賛同を得たかった層(=同じ田舎出身者)」から批判が届いたことに心を痛めたそうです。もしかすると、著者は彼らにとって「東京かぶれの裏切り者」なのかもしれません。
この瞬間、私は「イナカモノ」から抜け出せているか
この記事を読んで「田舎の若者が可哀想だ」だけで済ませてはいけないのです。その瞬間、あなたは釧路から出られない若者と同じであるかもしれないからです。常に自分の手を伸ばせる世界を広げ、その上で自分のいる場所を定めなくては、いつの間にか自分が越境者を排斥する側の人間になっているかもしれません。もちろん身体的、経済的な限界はあるのですが、少なくとも常に「知る」努力を怠らない姿勢を持っておきたいと感じます。